服部峻昇作かきつばた図(本店店内)

● 菓銘のいわれ ―八ツ橋とかきつばた―
 八橋検校の歿後、彼の遺徳を偲んで、墓所のある京都黒谷金戒光明寺に参詣におとづれる人々が後を断ちませんでした。このため門弟たちは、八橋検校に因んで琴を形取った焼菓子を「八ツ橋」と名付けて、参道の黒谷の森の茶店で売り出しました。これが京名物「八ツ橋」の始まりです。

ところで、「八ツ橋」といえば「かきつばた」の花とともに、平安の歌人在原業平が想い起こされます。
 江戸時代、東海道五十三次の39番目の宿場として栄えた池鯉鮒(ちりふ)には、八橋町の無量寿寺の庭園で「かきつばた」の名所があります。この八橋は、平安の歌人在原業平(ありわらのなりひら)が、「かきつばた」の5文字を句頭も入れて歌を詠んだことに由来しております。

「むかし男ありけり」の出だしで有名な歌物語「伊勢物語」(西暦900年代)の九段の中で、京から東の方へ住む国を求めてゆく下りの中で、平安初期(800年代)にこの地をおとづれたことが描かれています。かきつばたの美しく咲く水辺に腰をおろして、糒=ほしい(ご飯を乾燥させたもの)をつかっている時、話の成り行き上、「かきつばた」の5文字をそれぞれ五七五七七の句の頭にすえて旅の心を歌にするようにと、友人に促され詠んだのが、

    からころも きつつなれにし つましあれば
          はるばるきぬる たびをしぞおもう

の歌でした。その意は、唐衣をずっと着続けていると次第に身に柔らかくなじんでくるが、ちょうどそのように慣れ親しんで来た妻を都に残しての旅は、思えば遠くまで来たものでなんとやるせないことだろう、というものでしょう。友人達はみな業平の歌に心を打たれ涙したと描かれています。
ここでの八橋は、土地の名で「川の流れが蜘蛛の手のように幾筋にも分かれているため、橋を八つ掛け渡してあるので八橋という」と、伊勢物語は説明しています。
三河地方には、この「八橋」に因んだ故事が伝承されております。


 当社も創業以来この「かきつばた」をもとに、包装紙や容器のデザインを採用いたしておりますし、戦前には「騎馬の在原業平像」も包装紙に使用しておりました。またそのものずばりに「かきつばた」という商品も「生八ツ橋」が発売される以前からつくられておりました。
 歴史的には、太平洋戦争直後「京名物としての八ツ橋」の由来を、高名な歴史学者に委嘱し、詳しく検証して行く過程で、最も信憑性の高い「八橋検校由来説」が一気に浮上し、採用された次第であります。

 因みに、在原業平は、晩年を洛西の小塩山のふもとにある十輪寺に隠棲しその地で歿したといわれております。境内には、業平が塩焼きの風情を楽しいだという塩竃の跡と簡素な墓碑とがあります。十輪寺では毎年5月28日に「業平忌」が営まれ、11月23日には「業平塩竃まつり」が行なわれております。
 しかし、八橋検校ゆかりの黒谷の近くにも業平ゆかりの史跡があります。吉田山の中腹にある吉田神社は吉田神道発祥の地として著名ですが、更に山頂へ登る途路の竹中稲荷社の北側裏手に、ひっそりと「業平塚」が立っております。竹中稲荷の説明板に「古記に、在原業平の居を神楽岡の稲荷神社の傍らの卜す云々とある」と書いてあります。吉田神社では、業平の遺言により吉田山に葬られたとの見解ですし、また江戸期の「暁筆記」という書物に「東山の吉田の奥に納めて廟をつくる」という記述があるそうですが、それにしても質素な業平塚です。吉田神社の創建が西暦859年、業平の歿年が880年と言われておりますので、時代的にも当時大変な喧騒を誇ったであろう吉田神社に、葬られれことは有りえないことではないでしょう。
 また業平と吉田神社との結び付きを考える上で忘れてならないのは、かの「徒然草」の作者吉田兼好も忘れてはなりません。

 いづれにしましても、八橋検校と在原業平、京都と三河、この一見関連性のない事象や土地が、「かきつばた」という可憐な花を介して、結び付くという歴史上のロマンを感じさせます。

● 銘菓「かきつばた」
「生八ツ橋」本来の風味と食感を、「かきつばた」の花びらの型に打抜いて表現しました。当店秘蔵の伝統菓子で、直営店でのみお取扱させて頂いております。また新しい「かきつばた」のシリーズが、装いも新たに登場いたしました。
◆「聖=旬菓」の登場にあわせて、季節の花々の型に打抜き、旬菓の「あん」を包んだシリーズが、
 新登場いたしました。
冬期 うめ 春期 さくら 初夏 さつき
夏期 青梅 夏期 白桃 秋期 くり、もみじ
きく等
 
◆「慶事」用
   正月菓  松竹梅 鶴亀 など
   干支菓  ひつじ(平成15年)
        さ る(平成16年)
 
 「八ツ橋」といえば近頃では、つぶあんを生八ツ橋で包んだ三角形の「聖」(ひじり)を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。
 ところが本来は、近世筝曲の祖「八橋検校」にちなんで命名された琴形の焼菓子です。
 果たしてこの京名物「八ツ橋」はどのように生まれたのでしょうか。その逸話をご紹介しましょう。

● 八ツ橋
 八ツ橋は、うるち米のみを使った菓子で、薄くのばしたものを短冊に切り、反りをつけて焼いたものですが、当時は砂糖やニッキはまだ使われていなかったでしょう。 ほぼ現在の仕様に近づいて、京土産として有名になったのは、明治三二年、吉田神社節分会に出張販売されたり、明治三十七年、日露戦争時七条駅(今の京都駅)の開業にともない、駅での立ち売りがなされてからのことのようです。特に、大正四年(1915)大正天皇の御即位の式が、京都御所紫宸殿で行われた際、全国から奉祝の人たちがみえ、その時八ツ橋をお土産としてお買上げいただいたことが今日の繁栄につながっています。
 その間明治四十五年には、「聖護院八ツ橋」として登録商標がとられていますが、当時すでに「八ツ橋」は一般名称化していたのでしょうか、「八ツ橋」の名では登録がとれなかったようです。
 昭和初年代以降、「八ツ橋」は時代とともに歩んでいます。軍国主義の時代や太平洋戦争時の物資統制、原料不足による生産休止、戦後の統制経済の影響など、「八ツ橋」の歩みは、昭和史の縮図でもあります。
 そして新しい時代の到来とともに「生八ツ橋」の時代を迎えます。

● つぶあん入り生八ツ橋・聖
 聖の発祥は、意外に新しく昭和35年祇園祭山鉾巡行の前日、祇園町「一力」にて開催の「表千家即中会」のお茶席で、生八ツ橋に「あん」を包んでお出ししたのが、始まりです。大変なご好評をお頂いたことを受けて、商品化に踏み切り、「あん」を「こしあん」から「つぶあん」に変えたり、形を三角形に整えたりいたしました。
菓銘の「聖」は、もちろん聖護院の「聖」をとり、「ひじり」の呼称は功徳ある高尚な僧侶を名乗り、その「三角の形」も僧帽に似せるという懲りようでした。
 真っ白で、ニッキの香りほのかな生八ツ橋の生地づくりは、伝来の技術に加えいかにコシがあり、それでいて固くはない、しかも出来る限り老化を防ぐというのがポイントです。しかも季節による温度や湿度の差も克服することが大きな課題でした。見た目や手触り温度や時間など、得てして感覚だよりであった製法に、最近は科学の目を当て、相当程度に理論上も品質の安定が図れるようになって参りましたが、まだまだ課題の多い昨今です。
 さらに「つぶあん」という菓子で最もポピュラーなものが占める度合の強い菓子ですので、小豆という原料の厳選には心血を注ぎます。特に小豆は、その品質が毎年気候に最も影響される作物ですので、北海道の作柄に応じて気の休まる年はありません。


株式会社 聖護院八ツ橋総本店
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