● 八橋検校(やつはしけんぎょう)のこと
 京土産「八ツ橋」は、近世筝曲の開祖と呼ばれる「八橋検校」に由来しています。
 「八橋検校」は江戸時代初期の筝曲演奏家、作曲家です。慶長十九年(1614)生まれ。
 出生地には諸説ありますが、『筝曲大意抄』(山田松黒著/1779)以来、福島県いわき市が定説となっています。八橋検校は、幼少より目が不自由であったため、「当道座」(目が見えない人達による組織。検校・別当・勾当・座頭などの官位名がある)に編入。幼名を城秀といい、初めは大阪の摂津にて当道の表芸のひとつである三味線で名を高めます。その後、江戸に出て、賢順を始祖とする『筑紫流筝曲』の伝承者の一人・法水に出会い、筑紫筝の技法を学びました。以来、岩城平藩主・内藤義概(号:風虎)の庇護の下に筝曲の確立に励むことになります。
 寛永十三年(1636)には、最初の上洛をはたし、勾当の位を得ています。さらにこの頃、筑紫筝の奥義を極めたいという思いが断ち切れず、九州肥前国諫早の地(現在の長崎県諌早市)にまで赴き、そこで賢順の第一高弟である慶厳寺の僧・玄恕に師事し、ことごとく秘曲を受け得て江戸に戻ったという説があります。
 寛永十六年(1639)に再度上洛した折には、当道における最高官位「検校」に任ぜられ、上永検校城談と称しました。後に、その名は「八橋」と改めています。
 検校登官で自信をつけた八橋検校は、慶安年中(1648 ̄52)に筝曲の改革を行います。つまり、音楽面、詞章面とも筑紫筝の組歌(賢順十曲)とは大いに異なる新しい筝組歌十三曲を創始したのです。音楽面での大きな改革は、陰音階を基調とした調弦法を編み出したことでした。詞章面では、歌人でもあった内藤風虎の協力もあり、組歌の文芸的芸術性を一層高めるものとなりました。
 八橋検校は、この八橋十三組の創作と、段物として器楽曲三曲を作曲したことによって、近世筝曲の礎を確立しました。いわゆる筝曲八橋流の誕生です。
 そして、寛文三年(1663)頃から京都に移住したとされています。近世筝曲の普及と伝承に貢献する門弟を数多く育てましたが、貞亨二年六月十二日(1685・6・12)、多くの門弟達に見守られ惜しまれながら、静かに、音楽にかけた生涯の幕を閉じました。享年七十二歳。1685年といえばヨーロッパでは楽聖バッハが生まれた年ですが、日本にはすでにこれだけの音楽を創造していた人がいたのでした。
 八橋検校は、京都黒谷の金戒光明寺(塔頭・常光院)に葬られ、『鏡覚院殿円応順心居士』と号しました。

京都・黒谷金戒光明寺常光院

八はしでら碑

八橋検校墓所


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