2007年 祭菓「古都の初秋」掲載うろこ雲

 山の麓ならば、との期待に反し、部屋の中ではまだ腕を動かすだけで、汗が吹き出す熱気が漂っていた。 暦の上ではとうに秋になっているというのに、京都の夏はいつまでたっても終わる気配が無い。
 いくら人の目の無い男の一人住いとはいえ、何時までも部屋から出ずにただ暑いと呟いているもいささか不健康な気になり、 いやいやではあるが浴衣を整えて外を歩くことにした。

 「お出かけですか」
 大家が声をかける。
 下宿とは呼ぶものの、何をしているのかわからない学生ばかりがただ集まっている場所なので、慈善事業のような下宿場だった。 安い家賃さえ渡していれば、大家とはいえ隣人のように気兼ね無いものである。
 「ええ。少し、暑さに負けて」
 そうですか、と彼女は顔の皺を濃くすると、私を見て何か言いたげに微笑んだ。
 何を笑われたのだろうか、と首を傾げながらも、路地に踏み出した。

 

 風のおかげか、路地は幾分部屋の中よりは涼しいと思う。時折聞こえる風鈴もその理由かと思い、秋の暦の中で鳴る風鈴の可笑しさに笑ってしまった。

 

 暫く行くと、八ッ橋屋がある。
ここの香りに、住みだした当初は戸惑ったものの、半年もすれば慣れてしまった。強い、肉桂の香りなのだ。
 誘われるように店先に立ち止まっていると、店先の男が白い衣で近づいてきた。
 「お出かけですか」
 ええ、暑さに負けて、と大家へと同じ返事をする。
 男の衣から、ぷうんと肉桂が香った。衣ではなく、男から漂っているのかもしれない。
 「でも、もう秋やないですか」
 「暦の上では秋なのでしょうが」
 「暦も、そういい加減に出来たもんやありませんよ」
 天空に、指を立てる。
 辿れば、青い空に波が広がっていた。暑い暑いと地面ばかり見ていたので、見落としていたのだろう。
 「うろこ雲ですか」
 「もう、秋になってますよ、ちゃあんと」
 そして、男は私を見て少し微笑むと、香りを漂わせて店に入っていった。

 

 自分が浴衣姿であるのを思い出して、私もまた笑ってしまった。
 なるほど、うろこ雲の前での浴衣とは、秋暦の前の風鈴よりも滑稽であると、ようやく大家の笑顔の意味を知ったのである。

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